宇喜多秀家

うきた ひでいえ

備前の戦国大名。

宇喜多直家の嫡男。

父の没後、当主を継いだばかりの秀家はまだ11歳であった。

当時の宇喜多家は織田家に従属しており、幼い秀家は特に羽柴秀吉に可愛がられた。

元服して秀吉の「秀」の字を賜り、17歳で秀吉の養女だった豪姫(前田利家の娘)と結婚する。


こうして秀家は豊臣一門に列する別格の待遇を受けた。

秀家の初陣は紀州征伐のころとされる。

その後も四国征伐や九州征伐、小田原征伐にも参陣した。

唐入り(朝鮮侵攻)では、日本軍の総大将となる。

豊臣政権では備前・美作ほか備中・播磨の一部57万石を領し、豊臣五大老のひとりとなった。


秀吉の没後、宇喜多家の家臣団の中で騒動がおこる。

これは宇喜多家譜代の家臣と、豪姫の嫁入りの際に帯同してきたもと前田家の家臣との対立が原因とされる。

譜代家臣が襲撃未遂を起こし、それを処罰しようとした秀家に対して立て籠もりなどが起こった。

この騒動は最終的に、徳川家康の調停によって収る。

しかしその結果、宇喜多譜代の家老である戸川達安らや、一族の宇喜多詮家(秀家のいとこ)までもが宇喜多家を出奔した。


慶長5年(1600)秀家29歳のとき、関ヶ原の戦いがおこった。

豊臣恩顧の秀家は1万7千の軍勢を率い、西軍の主力として参陣する。

東軍の先鋒・福島正則勢と激戦を繰り広げた。

(ちなみに上記の戸川達安や宇喜多詮家は、東軍に属して戦っている)

だが小早川秀秋の寝返りで、宇喜多勢は挟撃され壊滅、西軍は敗北した。


戦後、秀家は逃亡し薩摩の島津家へ匿われていたという。

しかしその島津家も徳川家に臣従することになり、秀家もやむなく家康のもとへ出頭した。

島津家や豪姫の生家・前田家の嘆願もあって、秀家は助命。

慶長11年(1606)秀家35歳、八丈島への流罪が決まった。


八丈島での生活は不自由なものであったが、加賀の前田家や旧宇喜多家臣の花房家らの支援もあり細々と暮らしたという。

ある時、安芸福島家の船が江戸へ向かう途上、嵐にあい八丈島に避難してきたことがあった。

この船は幕府に献上する広島の銘酒100樽を積んでおり、偶然にも宇喜多秀家に遭遇した。

秀家が酒を所望したので、福島家臣は哀れに思い1樽を譲った。

のちにその話を聞いた福島正則は、福島家の面目を保ったと家臣に感謝したという。


明暦元年(1655)秀家84歳のとき、八丈島でその生涯を閉じた。

すでに江戸幕府は4代将軍・家綱の時代となっていた。

秀家は関ヶ原の戦いに参陣した戦国大名の中で、最も長生きしたことになる。


秀家の罪が赦免となり許されたのは、江戸時代が終焉した明治2年(1869)のときである。


それから時が経ち平成9年(1997)、八丈島に宇喜多秀家と豪姫の石碑が建てられる。

2人は397年ぶりに再会した。

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