前田慶次
まえだ けいじ
尾張織田家臣。
名は利益。
もとは滝川一益と同じ一族であったとされ、子のいない前田利久(前田利家の兄)の養子となた。
前田利久が病弱であった為、前田家を継いだ叔父の前田利家に仕える。
能登を領した前田利家のもとで、越中の佐々成政との戦いや小田原征伐などに従軍した。
しかしその後、前田家を出奔する。
慶次は京で浪人をしていた。
古田織部や細川藤孝などの文化人と、茶道や連歌などの文化交流をしていたとされる。
また慶次は破天荒な言動や、派手な出で立ちや風流を好む傾奇者であった。
豊臣秀吉より「天下御免の傾奇者」と称えられとされる。
豊臣秀吉が伏見城で大名たちを招いて主催した宴席に紛れ込み、余興で踊った逸話がある。
このとき上杉景勝だけは威風凛然として近寄りがたく、また自分が仕えるべき主君であると悟ったと語る。
のちに直江兼続に招かれ、上杉景勝に仕えるべく会津へ向かった。
関ケ原の戦いが勃発し、会津でも東の関ケ原と呼ばれる長谷堂城の戦いがおこる。
慶次はこの戦いで「大ふへんもの」と書いた指物を背負い、大いに活躍したと伝わる。
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