松平信康
まつだいら のぶやす
三河徳川家一門。
徳川家康の嫡男。
家康が今川家の人質時代に誕生している。
家康が三河で独立した後も、駿河に残された信康は人質となっていた。
のちに人質交換で三河に入国した。
徳川家と織田家の清須同盟が成立すると、信康は織田信長の娘・徳姫と結婚した。
信康の「信」の字も信長から賜ったものである。
家康が遠江の浜松城に居城を移すと、三河の岡崎城は信康に与えられた。
信康は、たいへん武勇に優れた若武者であったと伝わる。
戦でも武功を示し、家康からも「まことの勇将」と称えられた。
しかし一方で家臣の諫言は聞き入れず、粗野で横暴な性格であったという。
長篠の戦い
松平信康は徳川勢二陣
天正7年(1579)、わずか20歳の若さで家康から切腹を命じられた。
通説によれば、武田家と通じ謀反を企てた為とされる。
信康の裏切りは、妻の徳姫が父である信長に密告し発覚したという。
信康の母(家康の正室)も謀反に加担したとされ、家康はやむを得ず2人の処断を命じた。
後年、家康は関ヶ原の戦いで苦戦したとき
「せがれがおれば、こうも苦労することもなかった」
と愚痴をこぼしたという。
このときのせがれは徳川秀忠では無く、亡き松平信康を指していたとされる。
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