島津歳久
しまづ としひさ
薩摩島津家一門。
島津四兄弟の三男。
兄弟の中では「始終の利害を察する智計に並び者なし」と評される。
兄の義久に従って、薩摩ほか三州統一の数々の戦いに貢献した。
豊臣秀吉の九州征伐が始まると、歳久は兄弟の中では唯一、降伏を主張していたという。
秀吉を「農民から大名までに成った、ただ者ではない」と語っている。
しかし島津家は豊臣勢との決戦に臨むことになる。
やがて戦いが劣勢になると、家中は和睦に傾き始めた。
ところが歳久は「今は和睦の時機ではない」とこんどは徹底抗戦を主張した。
その後、義久や義弘が降伏した後でも抗戦を続けている。
こうした経緯もあり、秀吉は歳久を嫌った。
島津家が正式に降伏した後も、兄弟の義久・義弘・豊久(家久の子)には領地朱印状が発行されているが、歳久は無視されている。
一方の歳久も、家臣が秀吉の駕籠に矢を射かけるという事件を起こしている。
また肥前名護屋城へ諸大名が終結する中、歳久は病の為に参陣しなかった。
とうとう秀吉の堪忍袋の緒が切れる。
義久はやむなく、歳久の誅殺を決意し軍勢を送ることになった。
これに歳久は抵抗せず
「病の為に太閤殿下の前に出ることが叶わず、疑いの晴れぬままは無念である」
「しかし島津安泰の為に我が身を捧げる」
と言葉を残して斬首を受け入れた。
病の為に刀も握れず、切腹が出来なかったという。
家臣たちはみな涙したとされる。
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