黒田長政

くろだ ながまさ

豊前豊臣家臣。

黒田官兵衛の嫡男。

初陣は羽柴秀吉の中国攻めのころとされる。

その後も父に従って各地で武功を挙げ、九州平定後に家督を継いだ。

小田原征伐には官兵衛が秀吉に帯同し、長政は留守をしている。


唐入りでは3番隊として渡海し戦った。

朝鮮でのある城攻めでは、黒田勢は亀甲車なる攻城兵器を用いたと伝わる。

全面が牛皮張りで覆われた装甲車両で、これに足軽が乗り城壁に近づいた。

後ろに縄がついており、後退するときはこれを皆で引っ張ったという。

亀甲車は黒田官兵衛の発案ともされ、関ヶ原合戦時の九州戦でも官兵衛は城攻めに用いたと伝わる。

肥前名護屋城陣営

黒田長政は東側、対岸



秀吉の没後、長政も福島正則や加藤清正らと同じく石田三成を憎み、徳川家康に接近した。

三成を襲撃した豊臣七将にも加わっている。


石田三成が挙兵すると、長政は家康の東軍に積極的に与した。

家康と共に、西軍側に付く諸大名への寝返り工作を多数行っている。

毛利家の吉川広家も、長政の調略により寝返った。

関ヶ原本戦でも長政は石田三成勢と戦い、小早川秀秋の裏切りもあって西軍は敗走した。

このように長政は東軍勝利の第一功労者として、家康からも感謝される。

戦後、筑前福岡52万石の大大名となった。

関ヶ原の戦い

黒田長政は東軍の二陣北側



大坂冬の陣では江戸城の留守役をしている。

夏の陣では徳川秀忠勢に属し、前進した秀忠本陣の窮地を救っている。

大坂夏の陣

黒田長政は岡山方面、後陣




黒田長政といえば、銀箔押一ノ谷兜が有名である。

この兜、もともとは竹中半兵衛のものだった。

半兵衛の没後、遺品としてこの兜を福島正則が受け継ぐ。

その後時は流れ、唐入りでのある戦いで、福島正則と長政は仲違いをしてしまう。

帰国後、2人は互いに非を詫び仲直りをした。

そして友情の証にお互いの兜を交換したのだという。



晩年のあるとき、家臣の母里太兵衛が長政の子、万徳丸に

「父君を超えるような立派な武士になられよ」

と励ました。

しかしこれを聞いた長政は

「わしの関ヶ原の武功に勝ることなどできぬわ」

と自負し、太兵衛に激怒したという。

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