浅野幸長
あさの よしなが
甲斐豊臣家臣。
浅野長政の嫡男。
初陣は小田原征伐とされる。
唐入りでは8番隊として、父に代わって渡海し戦った。
当時まだ17歳と若年だったので、伊達政宗が補佐役として同行している。
またこの戦役中に、浅野家は若狭小浜8万石から甲斐22万石へと転封となった。
肥前名護屋城陣営
浅野幸長は名護屋城二の丸、浅野長政勢
一時帰国中、豊臣秀次の切腹事件で浅野長政・幸長親子も連座して処罰を受ける。
能登へ配流されていたが、前田利家と徳川家康の取り成しで復帰した。
再び渡海して激戦をくぐり抜ける中、秀吉が没して日本勢は全軍撤退する。
幸長も福島正則や加藤清正らと同じく石田三成を憎み、徳川家康に接近した。
三成を襲撃した豊臣七将にも加わっている。
関ヶ原の戦いでも東軍に与し、本戦では後方で南宮山方面の西軍と対峙した。
戦後、紀伊和歌山37万石となる。
関ヶ原の戦い
浅野幸長は東軍の後方、南宮山方面の抑え
その後、幸長は加藤清正とともに、家康と豊臣秀頼の二条城での会見に尽力した。
しかし清正が会見後にまもなく病没し、その2年後に幸長も病没したので、ここでも徳川家の暗殺説が噂されている。
幸長には男児がいなかったので、弟の長晟が跡を継いだ。
幸長は類まれなる鉄砲名人であったと伝わる。
唐入りでのある戦いで、迫りくる敵兵を鉄砲でさんざんに撃ち破った。
このとき鉄砲を撃ち続けたことにより、銃身が焼き付き、きつね色に変色したという。
以来、この火縄銃は「狐筒」と呼ばれ、浅野家の家宝になったと伝わる。
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