島左近
しま さこん
近江豊臣家臣。
名は清興。
はじめは大和の筒井家臣であった。
筒井家を支えた2人の重臣、松倉重信と島清興が筒井の右近左近と呼ばれたので、これが左近の通称となる。
しかし筒井定次に仕えていたころ、当主の裁定に不服をもち出奔してしまったようである。
左近のその後の消息は不明であるが、伊勢の蒲生氏郷や大和の豊臣秀長のもとにいたともされる。
次に左近が仕えたのは石田三成であった。
三成は左近に礼を尽くし、2万石という大名並みの俸禄をもって迎え入れた。
当時の三成は近江佐和山に19万石を領していたが、それでも一家臣に2万石の禄高は別格の待遇である。
三成はそれだけ左近に期待し、また左近もそれに応えた。
「治部少(三成)に過ぎたるものが2つあり、島の左近と佐和山の城」
と謳われるほどであった。
関ヶ原の戦いでは、石田勢の先陣として奮戦した。
その左近に対峙した東軍の黒田長政勢は、身の毛がよだつほど恐ろしく汗も流れた、と伝わる。
また黒田の武者たちはのちに、その時に左近がどのような出で立ちをしていたのか、恐怖のあまり誰も覚えていなかったという。
合戦後の生死は不明である。
かつて左近と三成が大坂城の天守に登ったときがあった。
このとき三成は
「太閤殿下の威光によって、この見渡す限りの城下は繁栄し、民が喜んでいる」
「豊臣の栄光は永世に渡るであろう」
と言った。
それに対して左近は
「城下は繁栄しておりますが、城を三里も離れると、雨露をしのげぬ者や、餓死する者もいます」
「たとえ武で制しても、人は利に就くものです。二心を抱く者や、恨みを持つ者が従うとは限りません」
「将士を愛し、民を愛し、徳と礼をもって治めその心を捉えねば安穏はおとずれません」
と応えた。
0コメント