九鬼嘉隆
くき よしたか
志摩織田家臣。
元は志摩の国人衆のひとりだったが、伊勢の北畠家の支援を受けた他の国人衆により志摩を追われた。
嘉隆は尾張の織田信長に仕え、信長の伊勢侵攻に水軍を率いて従軍する。
信長の支援によって、ようやく志摩を奪還し領有を認められた。
その後、織田家の水軍として伊勢長島一向一揆攻めなどに活躍する。
織田家と本願寺との石山合戦では、本願寺に兵糧を運び入れる毛利家の水軍と木津川口で激突したが大敗する。
この戦いでは、毛利水軍の使用する焙烙火矢によって九鬼水軍の船はことごとく焼き払われたという。
その2年後、信長の命によって鉄張りの装甲をまとった鉄甲船を建造する。
再び毛利水軍と木津川口で激突し、こんどは大勝して雪辱を晴らした。
鉄甲船は火や鉄砲をよせつけず、大砲で毛利水軍の船をさんざんに撃ち破ったと伝わる。
本能寺の変の後、九鬼水軍は伊勢を領する織田信雄の与力となるが、小牧・長久手の戦いでは羽柴秀吉側に寝返る。
その後も豊臣家の水軍として九州征伐や小田原征伐に従軍した。
関ヶ原の戦いが勃発すると、嘉隆は西軍に与する。
しかし子の守隆は東軍に与し、親子で東西に分かれて戦うことになる。
西軍の敗戦後、守隆は徳川家康に父の助命を嘆願しこれを認められるが、その使者が付く前に嘉隆は切腹した。
九鬼水軍はその後も徳川家の水軍として大坂の陣などに従軍している。
しかし後に、お家騒動によって海のない摂津三田へ減封となってしまう。
こうして戦国最強と謳われた水軍は失われたが、それでも九鬼家は城の前にある池で水軍の調練を続けたという。
九鬼嘉隆は水軍から大名にまで成った稀有な例から、「海賊大名」とも称される。
また海賊の猛々しい荒波のイメージとは裏腹に、茶道にも造詣が深かったという。
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