前田玄以
まえだ げんい
美濃織田家臣。
織田信長に招かれ家臣となった僧侶で、織田信忠の家老となる。
本能寺の変の際は、信忠に同行していたが京を脱出している。
その後、京都所司代を担う。
豊臣政権下では五奉行のひとりとなり、丹波亀山5万石を領していた。
関ヶ原の戦いが勃発するころは大坂におり、豊臣秀頼の警護を名目に中立の立場を貫く。
よって戦後も本領を安堵された。
玄以は僧侶でありながら、キリスト教にもある程度寛容であった。
玄以の息子2人は切支丹にもなっている。
また京都所司代になったころ、牛車が倒れ道をふさいでいたことがあった。
本来であればその御者が罰せられるところ、なぜか玄以は牛を処罰し斬るように命じた。
京の人々は変わった役人が来たものだと恐れおののき、都の治安は保たれたという。
玄以が京都所司代を務めた間は、処罰で斬られた人間はいなかったとされる。
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