細川藤孝

ほそかわ ふじたか

足利幕府家臣。

京を追われた足利義昭に従って流転し、やがて織田信長の庇護によって義昭は将軍に就任する。

義昭と将軍の対立が顕著になったころ、藤孝は信長に臣従する。

やがて義昭が京を追放されると、姓を長岡に改名した。


その後各地で転戦し、明智光秀の与力大名として丹波宮津城を領する。

嫡男・忠興の妻は明智光秀の娘・玉(ガラシャ)である。


本能寺の変後、藤孝は光秀から協力を求められるが、これを断る。

隠居して家督を忠興に譲り、幽斎を名乗った。


藤孝は武芸の達人で、弓射も皆伝の腕前であったという。


また茶道や歌道など文化教養にも造詣が深く、特に和歌においては古今和歌集の奥義秘伝を相伝(古今伝授)していた。


藤孝は昔、武辺一辺倒の若者であったという。

ある戦にて敵を追っていたが、敵を見失い馬が乗り捨てられていた。

藤孝はあきらめようとしたが、従者が和歌を歌い

「君はまだ 遠くは行かじわが袖の 涙もいまだ 冷ややかならねば」

この歌のように、馬の鞍がまだ暖かいので敵はまだ近くにいますと言った。

はたしてその通り追ってみると、見事敵を討ち果たせた。

このことから藤孝は歌も戦の役に立つものだと考え、さまざまな芸事の修得に励むようになったという。


やがてその芸が身を助けることになる。

関ヶ原の戦いが勃発するころ、嫡男の忠興は東軍に与し徳川家康のもとで戦う。

しかし本拠の丹後田辺城に居た藤孝は城を西軍に包囲され、2ヶ月に及ぶ籠城でもはや絶体絶命であった。

このとき藤孝が相伝した古今伝授がまだ次の弟子に相伝されておらず、秘伝が途絶える可能性があった。

そこで朝廷みずからが勅命によって講和させ、藤孝を保護することで開城させた。

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