柳生宗矩
やぎゅう むねのり
大和柳生の出身。
父は剣星・上泉信綱に剣術を学んだ柳生宗厳(石舟斎)。
柳生家はもとは筒井家の家臣で、離反し松永久秀に仕えた。
しかし久秀もやがて信長に滅ぼされ、宗矩も父に伴って浪人の身になった。
のちに父の推挙で徳川家康に仕えることになり、関ヶ原の戦いにも参陣している。
徳川2代将軍・秀忠の剣術指南役となり、大坂の陣では秀忠に迫った豊臣方の敵兵7人を瞬時に斬り伏せたという逸話が残る。
宗矩は晩年、3代将軍・家光の兵法指南役となる。
大和柳生1万2千石を領し柳生家を大名として再興した。
一介の剣豪から大名にまで成ったのは、日本史の中で宗矩ただ一人である。
息子に柳生三厳(十兵衛)がおり、十兵衛によると「祖父・石舟斎は上泉信綱にまさり、父・宗矩は祖父にまさる」と称す。
「無刀取り」は刀が無くとも相手を倒す剣術の極意。
上泉信綱が創始した新陰流の奥義で、その弟子の中で唯一、印可を授かった柳生宗厳が継承した。
徳川家康の求めに応じ、宗厳は無刀取りで家康からたやすく刀を奪ったと云う。
宗厳は高齢を理由に仕官を辞退し、子の宗矩を推挙した。
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