佐久間信盛
さくま のぶもり
尾張織田家臣。
織田信長の幼少時から仕えてきた、最古参の家臣。
信長の覇道を最前線で戦ってきた、歴戦の勇士である。
尾張鳴海城を居城とし、三河の徳川家との取次役も担った。
殿の名手として「退き佐久間」とも謳われている。
桶狭間の戦い
佐久間信盛は善照寺砦の守り
姉川の戦い
佐久間信盛は三陣左翼
長篠の戦い
佐久間信盛は二陣左翼
信盛は長きにわって織田家に仕え、筆頭家老の地位にあった。
しかし幼いころからの信長に仕えてきたことから、気兼ねなく物申すことが信長の機嫌を損ねることも多々あったという。
越前朝倉家との戦いでは、織田家臣たちは朝倉勢を追撃する機会を逃したことがあった。
この失態を怒った信長に対して、信盛は
「そうは申されても、我々ほどの優れた家臣はそうおりますまい」
という言い訳をし、さらに信長を激怒させたことがある。
信盛は天正8年(1580年)、突如19ヶ条にわたる折檻状を信長より渡され織田家から追放された。
このころの織田家はすでに畿内を制し、各地方への侵攻を進めていたころであった。
信長にとってわずらわしい信盛は、もはや用済みになったと考えられる。
こうして信盛は高野山に追放先され、やがてその地で病没した。
「19ヶ条の折檻状」
一、
佐久間親子は(天王寺砦に)5年間在城しながら何ら手柄がなく、世間が不審に思うのも当然である。
信長も同様に思い当たることがあり、言葉では言い尽くせないほどである。
一、
その心を推し量るに、大坂本願寺は大敵と考えたか。
戦いもせず、調略もせず、ただ城を守るばかり。
数年も経てば、相手は僧侶だから信長の威光にひれ伏し退去するとでも思い遠慮したか。
しかし武者の道はそのようなものではない。
時機をみて、勝敗を見極め戦うことは信長の為でもあり、かつ佐久間親子の為でもある。
また他の将へ苦労をかけることもなかった。
本来はそうあるべきなのに、守り一辺倒の判断は命を惜しんだこと疑いようのない。
一、
丹波の日向守の働きは、天下に名誉を保った。(明智光秀の丹波平定)
次に羽柴藤吉郎も、数ヶ国におよぶ比類なき活躍。(羽柴秀吉の中国攻め)
それから池田勝三郎も小身ながら、花熊城を落とし天下に名を知らしめた。(池田恒興の荒木村重討伐)
これらを聞けば奮起し、ひとかどの働きがあってしかるべき。
一、
柴田修理亮(柴田勝家)も諸将の働きを聞き、越前一国を治める身でありながら、天下の評判に遅れあってはならぬと、この春は加賀に侵攻し一国を平定した。
一、
戦う手立てがないのであれば、与力衆に調略させるなり、至らぬところを信長に相談し謝罪すべきであるのに、5年の間に一度もないのは悪行である。
一、
先日、保田知宗(紀伊の国人衆で佐久間信盛の与力)が送ってきた書状には、
「本願寺の一揆勢を攻め崩せば、残る小城はおおかた退散します」
と書いてあり、これに佐久間親子も連判している。
これまで一度の書状もなかったのに、今になって送ってきたのは自身の落ち度を逃れる為であろう。
あれこれ申すな。
一、
家中でも佐久間は格別であろう。
三川、尾張、近江、大和、河内、和泉に与力が付いておる。
根来寺衆を加え紀州にも与力がおる。
小勢ではあるが7ヶ国もの与力が付き、かつ自身の手勢を加えれば、如何なる戦いでもさほど後れを取る事はなかろうに。
一、
三河刈谷(水野信元の旧領)を与えたので手勢も増えたかと思っていたが、そうでもない。
事もあろうに、水野の旧臣を大勢追放したそうではないか。
そうであっても、代わりとなる家臣を雇えば同じ事である。
なのに1人も増えておらず、その財を懐に蓄え、金銀をため込んでいる事、言語道断である。
一、
尾張山崎を与えた時にも、信長が声をかけた者たちをほどなく追放したではないか。
これも先ほどの三河刈谷と同じである事は紛れもない。
一、
以前より自身の家臣に加増するなり、ふさわしい手勢を付けさせるなり、新たに家臣を雇っておればこれほどの事にはならなかった。
しかし蓄える事ばかり考えているから、いま天下の面目を失っている。
唐土・高麗・南蛮までにもその噂が知れ渡っているのはあるまじき事。
一、
かつて朝倉を破ったとき、追撃を逃したのは失態と申しつけたことがあった。
しかしそれを落度とは思わず、挙句には吹聴した。
そればかりか席を蹴って立ち、信長は面目を失った。
だが口ほどもなく、延々と同じことを繰り返す卑怯さは前代未聞。
一、
甚九郎(嫡男の佐久間信栄)についても、書ききれぬほどある。
一、
大まかに書くと、第一に欲深く、気難しく、良き家臣を持とうとせぬ。
そのうえ、何事にもいい加減な対応をする。
つまるところ、父子とも武者としては足りていない。
よってこのような事になる。
一、
与力衆ばかりに頼り、戦いの時も軍役を課し、自分の手勢は戦わない。
領地を無駄にする卑怯な行いだ。
一、
佐久間の与力衆や家臣はみな遠慮している。
自身の考えを自慢し、「美しいが、綿の中には針が隠れている」ような相手を探る恐き扱いをするから、このような事になった。
一、
信長が家督を継いでから30年仕えてきた中で、「佐久間右衛門が比類なき働きをした」と言ったことは一度もない。
一、
信長が勝てなかった戦は、かつて遠江へ援軍を送った時だ。(三方ヶ原の戦い)
勝敗は平家の常であるから、それは仕方ない。
そうではあるが、家康の援軍として送ったのだ。
たとえ遅れがあったとしても、兄弟が討死したが、または家臣が討死したのであれば、その方が運よく生きていても誰も不審には思うまい。
しかし誰1人も死なず、あまつさえ平手勢を見捨て、世に平気な顔をしている。
これをもって、ここまで書いて来た無分別は紛れもない事である。
一、
この上は、いずれかの敵を平らげ名誉を取り戻し帰参するしかない。
もしくは討死するかだ。
一、
それか父子ともに頭を丸め、高野山へ上って連々と赦免を請うのがしかるべきである。
以上
数年の間も功がなく、命を惜しんだ子細は、この度の保田の書状で思い当たった。
そもそも天下を治める信長に口答えする輩は、前例がない。
ゆえに、最後の2ヶ条を果たすべし。
できない場合は、二度と天下が赦免することはあるまじきものなり。
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