堀秀政

ほり ひでまさ

尾張織田家臣。

堀家はもとは美濃斎藤家に仕えていた。

斎藤義龍が没したころに、織田家に仕えたとされる。


幼い秀政は織田信長の小姓として仕える。

やがて信長の側近のひとりとして、越前一向一揆攻めや紀州征伐など各地で転戦した。

姉川の戦い

堀秀政は織田信長本陣


長篠の戦い

堀秀政は織田信長本陣



本能寺の変の際には、秀政は軍監として羽柴秀吉の陣にいたので難を逃れる。

そのまま秀吉の旗下に加わり、山崎の戦いに参陣した。

山崎の戦い

堀秀政は天王山の二陣



その後も賤ヶ岳の戦いを経て、小牧・長久手の戦いに参陣。

秀政は三河中入りの第三陣として出陣し、本陣の羽柴秀次が徳川勢の奇襲で敗れるとこれを迎え撃ち撃退した。

第一陣の池田恒興、第二陣の森長可とは離れた為に撤退している。

戦後、越前北ノ庄18万石を領する。


九州征伐や小田原征伐にも参陣したが、小田原征伐の陣中で病となり病没した。

38歳の若さであった。



秀政は「名人久太郎」と呼ばれるほど人使いが上手く、また身分を問わず誰にでも慈悲深い人柄であったことで知られている。


ある合戦での行軍中、旗持ちが遅れており叱責されていた。

そこで秀政は、みずから旗を背負って歩いてみた。

すると「なるほど、馬の脚が早かったのだ」と言い、少し脚の遅い馬に乗り替えた。

旗持ちは遅れなくなったという。


ある合戦の陣中にて。

当時は近隣の盗賊らが闇夜に紛れて、陣中の糧米や武具を盗みにくる「陣泥棒」というものがよくあった。

秀政は見張りの兵に

「今宵は風雨が強いので、陣泥棒には持ってこいだ」

「わしが隙を見て盗みに入るので、見張りを怠るな」

と言い放った。

こう言われては、兵たちも気を抜くわけにはいかない。


ある城攻めにて。

城内から打って出てきた敵兵を生け捕りにした。

秀政は捕虜に対して

「連日城攻めばかりだが、どの城もすぐに落ちるので息つく暇もなく困っておる」

「お主ら、逃がしてやるから城に戻って、せめて三日は持ちこたえるよう伝えてくれぬか」

と言って逃がしてしまった。

捕虜たちは城へ帰ったが、とてもかなう相手ではないと城はすぐに降伏した。


あるとき、荷物持ちの人足と奉行が言い争っているのを聞いた。

人足は運ぶ荷物が重すぎると言っているが、奉行は役目だといって取り合わない。

そこで秀政は「では、わしが運ぼう」と言って荷物を担ぎ歩き出した。

しばらくして

「たしかにこの重さでは、一里も歩けば疲れるだろう」

「人足の言うことはもっともである、しかし役目も果たせねばならぬ」

と言った。

ここまでされては、双方も譲歩せざるを得ない。

お互いに和解し、協力できるよう話し合った。


あるとき領内に、政道を批判する高札が掲げられていたことがあった。

家臣らは

「すぐに悪党をみつけて処罰いたしましょう」

と言った。

しかし秀政は高札に書かれている内容を読み

「ここは間違っている」

「ここはこの者の言うことが正しい」

と一つ一つ応えだした。

そして

「これだけ領国のことを思って書いてくれたのだ」

「わしにとってはかけがえのない高札だ、家宝にしよう」

と持って帰ってしまった。

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