長束正家
なつか まさいえ
近江豊臣家臣。
はじめは織田家の丹羽長秀に仕えていたという。
山崎の戦い
長束正家は後陣、丹羽長秀勢
丹羽長秀の没後、丹羽家は120万石以上あった所領を15万石まで減封される。
これは羽柴秀吉が丹羽家の勢力を削ぐためにとった陰謀とされ、正家もこのときに丹羽家臣から秀吉の直臣となった。
正家は算用に非常に優れていたとされ、豊臣家の財政を担った。
合戦に必要な兵糧を瞬く間に算出したという逸話がある。
九州征伐や小田原征伐でも兵站を担い、史上稀なる大規模な軍勢でも兵糧が不足することなかったのは正家らの手腕によるものとされる。
唐入りでも兵站を勤めたが、流石に外海を越えての輸送は正家でも無理があったようだ。
日本勢は初戦で快進撃を続けたこともあり、やがて兵糧不足で厭戦となる。
再び戦端が開かれた後も兵糧奉行を歴任したが、秀吉の没後とともに日本勢は全軍撤退した。
肥前名護屋城陣営
長束正家は北側(城右下)、海岸沿い
正家は近江水口12万石を領し、豊臣五奉行のひとりであった。
石田三成の挙兵でも西軍に与し、関ヶ原の戦いでは南宮山方面に布陣する。
しかし吉川広家の裏切りで戦えず、撤退した。
関ヶ原の戦い
長束正家は南宮山方面
その後、正家は居城の水口城で籠城する。
そこに東軍の亀井茲矩らの軍勢が迫り、本領安堵の約束で開城を迫った。
正家は降伏するが、騙されて切腹させられた。
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