小西行長
こにし ゆきなが
肥後豊臣家臣。
もとは堺の豪商・小西隆佐の子で、備前で商人をしていた。
商用で宇喜多家に出入りするうち、才能を見込まれ宇喜多家臣の武士となる。
やがて羽柴秀吉に出会い、秀吉に気に入られ直臣となった。
山崎の戦い
小西行長は秀吉本陣の馬廻衆
豊臣家では主に水軍を率い、紀州征伐などで活躍した。
このころ高山右近の勧めで切支丹となっている。
九州征伐後、肥後の南半国20万石を領した。
北半国は加藤清正が領するが、この頃から清正とは急速に仲が悪くなる。
領界争いでは、石田三成と親しい行長がいつも有利な裁定だった。
また切支丹の行長はもちろんキリスト教を保護したが、熱心な日蓮宗の信者である加藤清正はこれを嫌った。
加藤清正は行長のことを「薬屋のせがれ」とさげすんでいる。
これは行長の父・小西隆佐が薬商だったことによる。
秀吉の唐入りに関しては、行長も唐入りそのものが無茶な野望と考えていた。
行長の娘婿である宗義智は対馬の領主だったので、行長は朝鮮との外交役に任命される。
秀吉は朝鮮に対して、「日本に服属し、大陸の明国へ攻め入る先導をせよ」と求めていた。
しかし朝鮮は古来より明を主と仰ぐ国なので、そのような要求が通るわけがない。
そこで行長と宗義智は結託して、「日本勢が明まで通行する許可を求める」という内容に勝手に変えた。
それでも当然ながら朝鮮側は要求を無視した。
やむなく行長らは、「秀吉が日本を統一したので、祝賀の使者を送るよう」と朝鮮側に要望した。
朝鮮側がそれに応じて使者を出すと、行長は「朝鮮が日本に服属した」使者だと秀吉に偽った。
気を良くした秀吉は、ついに軍勢を渡海させ始めた。
先陣の1番隊は小西行長、2番隊が加藤清正となる。
以降、9番隊まで続々と軍勢を渡海させた。
いよいよ朝鮮との戦端が開くことになるが、行長は「朝鮮が約束を違え裏切った」とまた偽りの報告をしている。
こうして行長は先陣として戦うことになるが、意外にも次々と朝鮮側の城を落とす勢いをみせる。
これは一刻も早く両国の講和を実現する為に、加藤清正より先んじて侵攻したと考えられている。
その合間にも行長は再三にわたって和睦の使者を出すが、まったく信用されず無視された。
そうしているうちに明の援軍を得た朝鮮側の反撃が始まり、やがて戦線は膠着し始める。
厭戦になると諸大名らは講和を求め始め、明との交渉を開始した。
秀吉はあくまで明が降伏することを求めたが、行長はこんどは明側の使者とも結託する。
明に対しては、「秀吉は明に降伏した」と偽り、外交文書の偽造までして講和を求めた。
そして秀吉に対しては、「明は降伏した」とまたしても偽った。
やがて明側からの使者が日本にやって来た。
しかし使者は「秀吉を日本国王に封ずる」と伝えただけだった。
明側からすれば日本が降伏したのであるから当然だが、これに秀吉は激怒した。
小西行長は不手際と咎められ切腹を命じられるが、他の家臣らの嘆願でなんとか助命される。
秀吉は侵攻を再開し、軍勢を渡海させた。
行長も武功を挙げて、先の失態を取り返すよう命じられる。
またしても先陣として小西行長と加藤清正が渡海を始めた。
なおこのとき、行長は朝鮮側に加藤清正勢の上陸場所をこっそり報せている。
清正を討ち取らせようと計ったとされるが、これは朝鮮側が罠と疑ったので実現しなかった。
行長は戦いながらも、まだ講和の道を模索していたようである。
だが今度の戦いは、秀吉が没したことにより日本勢は全面撤退した。
肥前名護屋城陣営
小西行長は東側(城左下)、海岸沿い
関ヶ原の戦いでは、西軍に与して戦った。
敗走後、行長は逃亡したがやがて捕らえられ、石田三成・安国寺恵瓊とともに京の六条河原で斬首された。
関ヶ原の戦い
小西行長は西軍の二陣中央
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