徳川秀忠
とくがわ ひでただ
徳川家一門。
家康の三男。
のちに家康の跡を継ぎ、徳川幕府第2代将軍となった。
なお秀忠の「秀」の字は豊臣秀吉から賜っており、徳川将軍の中で唯一「家」の字がない。
豊臣政権下では家康は在京していたので、秀忠は江戸城での留守役が多かった。
初陣は関ヶ原の戦いで、徳川本陣を率いた信濃上田城攻めである。
この上田城で秀忠は真田昌幸に翻弄され、関ヶ原の本戦に遅参する。
このとき家康は、強行軍で兵を疲弊させた秀忠を叱責している。
慶長10年(1605)将軍に就任した。
家康は「大御所」として駿河駿府に居住し、まだ実権を握ってた。
秀忠は武蔵江戸城に居住し、主に徳川天領と譜代大名の統治を行った。
家康は外様大名との均衡を担っている。
大坂の陣では名目上、秀忠が総大将となっている。
なお江戸の秀忠は、駿府を出陣した家康に追いつこうと、またしても強行軍を率い家康に叱責されている。
大坂冬の陣
徳川秀忠は岡山
大坂夏の陣
徳川秀忠は岡山方面
家康の没後、秀忠はみずから幕政を取り仕切り幕権強化に努めた。
福島正則ら外様大名を次々と改易し、また譜代大名であっても本多正純など気に入らない大名も改易した。
その後父の家康と同様に、後継者となる家光に将軍職を譲り、自身が大御所となった。
秀忠は温厚な人柄「仁孝恭謙」であったと伝わる。
兵を率いる戦国武将としては功績を挙げることができなかったが、治世においては江戸幕府の基盤を固めた功労者となった。
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