池田輝政
いけだ てるまさ
三河豊臣家臣。
織田家に仕えた池田恒興の次男。
初陣は謀反した荒木村重の有岡城攻めとされる。
父や兄に従って甲州征伐にも参陣している。
小牧長久手の戦いで、父の恒興と兄の元助が討死したため、輝政が池田家の家督を継ぐ。
父の遺領である美濃大垣13万石を領し、その後岐阜に移転。
豊臣秀吉の天下一統後は三河吉田15万石となった。
尾張を領する豊臣秀次の補佐役だったので、唐入りには参陣していない。
徳川家康の実娘である督姫を妻に迎える。
この縁から家康とは非常に親密となった。
また石田三成の襲撃に加担した豊臣七将のひとりに加わる。
関ヶ原の戦いでも東軍に与した。
戦後、播磨姫路52万石を領する大大名となる。
家康の娘婿という立場は絶大で、輝政は徳川一門に準ずる格であった。
また弟の長吉も因幡鳥取6万石を領している。
輝政の五男・忠継は備前岡山28万石、六男・忠雄は淡路洲本6万石を領しているので、池田一族だけで90万石を越える所領である。
その為、「西国将軍」とも称された。
関ヶ原の戦い
池田輝政は東軍の後方、南宮山方面の抑え
輝政は慶長18年(1613)に病没した。
大坂城のある豊臣家臣は、
「姫路宰相(輝政)は徳川大御所(家康)の娘婿だが、豊臣家にも忠義を尽くす士だった」
「彼が生きている間は豊臣家も安泰だったが、亡くなった今、大坂もどうなるか分からない」
と嘆いたという逸話がある。
輝政が家康と誼を通じたころ、かつて小牧長久手の戦いで父の恒興を討ちとった徳川家臣の永井直勝に面会した。
輝政は永井直勝から父の最期を聞かせてもらった。
しかしその永井直勝が、5千石の俸禄と聞き「父の首はたったの5千石か」と嘆いたという。
そして輝政は、養父の家康に永井直勝を加増するよう頼んだ。
のち直勝は1万石の大名になったという。
輝政はたいへんな倹約家だったと知られる。
あるとき、竹の水筒を使っている輝政に対して、家臣が銅製の水筒を勧めてきた。
「近頃流行りの、胴の水筒であれば早々壊れる心配もございません」
「殿もご使用になられてはいかがでしょうか」
と言う家臣に対し、輝政は
「たしかに胴ならば丈夫ではあるが、わしの竹筒はまだまだ十分に使える」
「流行りの物を追うために、金を無駄にするわけにはいかん」
と応えた。
52万石を領する大身だったにもかかわらず、普段の暮らしぶりは13万石の頃と変わらなかったという。
あまりに倹約が過ぎるので、あるとき家臣が諫めたことがある。
しかし輝政は
「何を申す、いざという時はわしも大金をはたいておるぞ」
「それは有能な家臣を召しかえるときじゃ」
と語った。
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