藤堂高虎
とうどう たかとら
近江浅井家臣。
7度にわたって仕える主君が変わったことから「渡り奉公人」とも称される。
また数々の名城にかかわった築城名人と称えられた。
もとは近江の土豪侍。
幼少のころより人並み外れた体格で、長じて身の丈6尺2寸(約190㎝)を越える大身であったという。
はじめ浅井家に仕える。
姉川の戦いで、磯野員昌勢に属し戦ったのが初陣であった。
浅井家が滅びると、織田家に臣従した浅井旧臣の阿閉貞征に仕える。
しかしここでいさかいを起こし、出奔したようだ。
次いで同じ浅井旧臣の磯野員昌に仕えた。
磯野員昌はやがて織田信長の甥・津田信澄に家督を譲って隠居する。
高虎はまたもいざこざで、津田信澄のもとを出奔したようである。
その後、羽柴秀吉の弟・秀長に仕えた。
高虎にとって初めて生涯をかけて仕える主君に出会えたともいえる。
秀長に従って中国攻めで功をあげ、その後も山崎の戦い・賤ヶ岳の戦い・小牧長久手の戦いと続く。
紀州征伐後に紀伊粉河1万石を領して晴れて与力大名と成った。
この頃、普請奉行として粉河に猿岡山城、若山に和歌山城を築城している。
また上洛する徳川家康の為に、京に屋敷を造るよう命じられた。
このとき、高虎は指示された設計図面に警備の上で問題があると判断した。
そこで自ら手を加え、またその為の経費は自分で負担した。
この対応を聞いた家康は、その心遣いに感謝したという。
こうして出世を重ねた高虎であったが、主君の秀長は病没する。
秀長の跡を継いだ子の秀保に仕え、唐入りにも参陣した。
しかしその秀保も早逝してしまい、主を失った高虎は失意のうちに出家し高野山へ隠棲してしまった。
その才能を惜しんだ秀吉は、高虎を呼び戻し還俗させる。
こんどは秀吉の直臣となり、伊予宇和島7万石の大名となった。
秀吉の没後、高虎は先の経緯もあり家康とは親密であった。
関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後に伊予今治城20万石へと加増される。
その後も伊賀・伊勢津22万石に転封となった。
この転封は、大坂の豊臣家を警戒した家康の対策ともいえる。
家康はそれほど高虎を信頼していた。
家康の遺言のひとつに
「もし国に一大事があった際は、藤堂高虎を先陣に、彦根の井伊家を2陣にせよ」
と言っている。
外様大名であった藤堂高虎がいかに信頼されていたかを語る。
この遺言に沿って、津藩藤堂家および彦根藩井伊家においては幕末まで転封が無かった。
また家康は臨終の際、高虎に対して
「わしは天台宗なので、日蓮宗のそちとは来世で会えぬ」
と語った。
それに対し高虎は
「天台宗に改宗し、来世でもお仕えします」
と応えたという。
「七度主君を変えねば、武士とは言えぬ」
とは藤堂高虎を表した言葉である。
戦国時代では主家が変わることは珍しいことではないが、自分が本当に仕えるべき主君を探し求めることを説いている。
高虎にとってまさに家康がそうであった。
家康の没後は、2代将軍・秀忠に仕える。
家康が信頼した高虎を、秀忠も敬愛した。
ある時、秀忠は二条城の改修を高虎に命じた。
これに対し高虎は2つの案を提出した。
秀忠はなぜ2案あるのかを高虎に尋ねた。
高虎は
「案が1つですと、将軍様がわたしの案に従ったことになります」
「しかし2つの案からお選びになれば、将軍自身が決めた案となります」
と応えた。
秀忠は高虎の心遣いに感服した。
陸奥会津の蒲生家が改易となったとき、秀忠は代わりにどの大名に会津を任せればよいか高虎に相談した。
高虎は加藤嘉明を推薦した。
秀忠も驚いた。
というのも、高虎と加藤嘉明は犬猿の仲であった。
かつて秀吉の唐入りの際、ともに水軍として戦った高虎と嘉明は軍略で意見が対立した。
また当時は両者が伊予を半国ずつ分けて領しており、領界争いなどが絶えなかった。
しかし高虎は
「公私は別です」
「加藤嘉明のほかに、会津を任せられる大名はおりませぬ」
と応えた。
秀忠は感心した。
のちにその話を聞いた加藤嘉明は、高虎に過去の非礼を詫び両者は仲直りした。
晩年、高虎は目を患った。
それを受けて秀忠は、高虎が登城しやすいように江戸城の廊下を真っすぐに造りなおさせた。
これには高虎も感激した。
他の大名たちは、どうして将軍が高虎に対してそこまでしてくれるのであろうかを尋ねた。
それに対し高虎は
「わしは大したことはしていない」
「ただこれまで、誰よりも朝早く登城し、誰よりも夜遅く退城してきただけだ」
と応えたという。
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