豊臣秀長

とよとみ ひでなが

豊臣家一門

秀吉の弟。


はじめ木下小一郎。

兄の藤吉郎(秀吉)に続いて織田家に仕えた。

秀吉の留守役や代理で参陣することが多く、重要な役目もそつなくこなした。

柴田勝家も「秀吉の弟にしておくのはもったいない」と語ったとされる。


秀吉が中国攻めの総大将となると、秀長も副将として随行する。

各地を制圧し、毛利を追い詰めた。

秀吉が山陽道の播磨・備前を領し、秀長は山陰道の但馬・因幡を領している。


本能寺の変が起こり、秀吉と共に急ぎ京へ帰還。

山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いと経て、秀吉の覇業を支える。

四国征伐では秀吉の名代として総大将を務め、長宗我部家を屈服させた。

つづく九州征伐でも総大将となって、島津家を降す。


秀長の所領は大和・紀伊・和泉100万石を越え、大和大納言と呼ばれた。

豊臣政権では徳川家康に次ぐ、第三位となる。


小田原征伐のときには病に侵されており、参陣していない。

結局、病は治らず。

秀吉の天下一統を見届けまもなく没した。


常に兄の傍で補佐し、時には諫めた秀長は豊臣政権を支えた第一の功労者であった。

その秀長がいなくなったことで、やがて秀吉は迷走していくことになる。。。



秀長は結婚も遅く、40代も半ば過ぎたころ、おまけに相手は尼僧であった。

兄とは違い女性に縁を求めなかったのか、それとも多忙ゆえにだったのか。

子は男子がおらず、養子の秀保(秀吉・秀長の姉の子、豊臣秀次の弟)が跡を継ぐ。

しかし秀保も早逝し、大和豊臣家は断絶した。



秀長は温厚で情に厚く「寛仁大度」な性格だった。

諸大名からの信頼も厚く、秀吉のとりなしは皆、秀長を頼った。

秀吉自身も「内々(個人的)のことは千利休に、公のことは秀長に相談せよ」と言っている。


反面、秀長は蓄財に目がなかったようである。

高利貸しや、高額転売も営んでいた。

諸大名に兵糧を高額で売り付けようとした時には、秀吉にたしなめられている。

秀長の死後、郡山城には遺産の金銀米が充満していたと伝わる。

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