内藤昌豊
ないとう まさとよ
甲斐武田家臣。
武田四天王のひとり。
もとの名は工藤祐長で、武田家の譜代家臣である内藤家を継いで内藤昌豊を名乗った。
何事にも優れた良将で、武田信玄から最も信頼された将といえる。
武田信繫の亡き後は、昌豊が「真の副将」と称された。
武田家の主だった戦いに参陣してきたが、それほど華々しい武功は挙げていない。
本人も、
「戦は将の軍配で勝ち得るもの、個人の手柄なぞ小さきことよ」
と意にかいさなかったという。
信玄もその意を汲み取り、昌豊に大功を評することはなかったが、常に重要な局面を任せてきた。
武田家が上野に侵攻した後は、昌豊が西上野の守りを預かるまでに成っている。
川中島の戦い
内藤昌豊は先陣右翼
北条家と激突した三増峠の戦いで、昌豊は小荷駄隊を率いた。
始めは先陣で戦うことのない小荷駄隊を嫌っていたという。
しかし信玄に、
「この戦いでは敵を惹きつける小荷駄が最も重要である」
「本当ならわし自身が率いたいくらいだ」
と説得され、昌豊はその任を全うした。
長篠の戦いでは先陣左翼を担い、織田勢や徳川勢と戦った。
武田勢が壊滅し敗走すると、昌豊は馬場信春とともに殿を務め討死にする。
長篠の戦い
内藤昌豊は先陣左翼
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