福島正則
ふくしま まさのり
尾張出身、母は秀吉の母(大政所)の妹で秀吉とはいとこにあたる。
秀吉に小姓として仕え、賤ヶ岳の戦いで敵将を討ち取り、賤ヶ岳の七本槍と賞された中でも筆頭となる5千石を与えられた。
秀吉死後の関ヶ原の戦いでは、豊臣恩顧の大名の中でも早くに家康の味方へつくことを宣言し、東軍として戦った。
福島正則の大水牛脇立兜は、もとは黒田長政のもの。
正則が所有していたのは一之谷兜で、竹中半兵衛の遺品だった。
黒田長政と一度不仲になった際に、その和解と友情の証にお互いの兜を交換したので、それ以降は大水牛脇立兜を身に着けている。
正則の妻・昌泉院は恐妻家であったとされる。
ある時、女性問題で嫉妬に狂った夫人は長刀を手に正則に斬りつけてきたという。
戦場では敵に背を向けたことがないと豪語していた彼も、このときばかりは逃げ出したと云う逸話がある。
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