木村重成
きむら しげなり
摂津豊臣家臣。
木村家は近江の土豪とされ、父の木村重茲は早くから織田家の木下秀吉に仕えていたという。
やがて重茲は功を挙げ、山城淀18万石を領していた。
しかし豊臣秀次の切腹事件に連座して自害し、木村家も改易された。
幼かった重成は豊臣家に預けられた。
母親が豊臣秀頼の乳母となったことで、秀頼の小姓となる。
長じて秀頼に最も信頼される重臣となった。
重成は大坂城でも主戦派で、片桐且元の暗殺を企てたともされる。
大坂冬の陣では後藤又兵衛とともに、今福の戦いで佐竹義宣勢と激戦を繰り広げた。
真田丸の戦いから始まった、大坂城南外堀の攻防でも戦っている。
和睦が成立した際は、その使者を努めた。
若くても堂々とした重成の振る舞いに、徳川諸将も感心したという。
大坂夏の陣では、河内方面から迫る徳川勢を迎え撃つため、長宗我部盛親とともに出陣した。
長宗我部盛親は八尾で、重成は若江でそれぞれ徳川先陣の藤堂高虎勢と激突した。
重成は藤堂高虎勢の一角を撃退したものの、救援に来た井伊直孝勢に押され壊滅した。
重成もあえなく討死してしまう。
徳川家康は首実検で重成と対面した。
このとき、重成の首は髪が整えられており、さらには伽羅の香りがしたという。
これは前日、兜に香を焚いていたと思われた。
死地に赴いても身だしなみを整え、武士の美学を貫いた重成に対し、家康は「希代の勇士よ」と称えた。
また重成は兜に香を焚いた他にも、出陣前は食事をとらなかったという。
もし首を切られて、食べたものが流れ出るようではみっともないというからである。
これも重成の武士としての心得であった。
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