山内一豊
やまうち かずとよ
遠江豊臣家臣。
尾張出身だが、山内家は織田信長の敵である織田信賢に仕えていたという。
やがて織田信賢は信長に滅ぼされ、一豊も流浪の身になる。
信長が美濃を領したころに、織田家に仕えることになる。
一豊は姉川の戦いに参陣し武功を挙げた。
妻の千代とはこのころに結婚している。
また羽柴秀吉の与力となって、中国攻めに従軍した。
天正9年(1581)に行われた織田家の馬揃えで、一豊は誰もが目を引く良馬に乗っていた。
信長の目にもとまり、賞賛されたという逸話がある。
この馬は東国から来た商人が連れていた馬であった。
織田家臣はみな羨望の眼差し向けたが、高額ゆえに手が出なかったという。
そこで妻の千代は、嫁入り時の持参金を夫に差し出し購入を促した。
信長は
「もし誰も馬を買わねば織田家中が笑い者となった、よくぞ面目を保った」
と一豊を褒めたという。
妻・千代の内助の功の逸話のひとつとして語られる。
以降も一豊は秀吉に従って山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦いと武功を重ねる。
小田原征伐後に遠江掛川5万石を領した。
唐入りでは肥前名護屋城在陣で渡海していない。
秀吉の没後、徳川家康の会津征伐に従軍する。
その道中に、石田三成が挙兵したという報せが届く。
家康は下野小山で諸大名を集め、評定を開いた。
このとき一豊は、自身の居城である掛川城を家康に差し出し全面協力する旨を伝える。
これを機に他の諸大名も東軍への参陣を表明した。
東海道筋の大名である一豊らが東軍に与したことで、家康は上洛までの安全な道を得たことになった。
この小山評定でも一豊には逸話がある。
家康に居城を差し出すという考えは、もとは遠江浜松12万石を領する堀尾忠氏の考えであった。
一豊と堀尾忠氏は評定の前に相談をしており、その時に堀尾忠氏が自身の考えを一豊に語っていた。
評定ではその案を、一豊が先んじて発言したのだという。
のちに堀尾忠氏はその出来事を笑って許したというから、その度量と2人の親密を物語っている。
また石田三成が挙兵したという報せは、一豊の元にも届いていた。
妻の千代から届いた密書である。
千代の密書は三成の挙兵を報せるだけではなく、その後の去就は家康に従うようにも書かれていた。
そしてその密書は封を解くことなく、そのまま家康に差し出すようにと使者に伝えていたという。
一豊はその通りに密書を差し出し、ますます家康の信頼を得たという。
妻・千代の内助の功の逸話のひとつとして語られる。
関ヶ原の戦いでは、一豊は東軍後方の南宮山方面に布陣している。
南宮山では吉川広家が東軍に裏切ったので、一豊はほとんど戦うことなく合戦は終わった。
戦後、一豊は小山評定での功を認められ、土佐10万石の国持大名となった。
なお土佐は10万石ほどの石高だったが、四国一の大名を目指した一豊は検地を行い20万石と申告する。
江戸幕府もこれを認めた為、土佐藩は20万石相当の奉公が課せられることになる。
当然、そのしわ寄せは領民に課せられ、領民も当初は苦労したという。
また土佐はもともと長宗我部家が領していた国だが、関ヶ原の戦いで長宗我部家は改易となった。
長宗我部家の旧臣らの多くは山内家に仕えることになるが、彼らの境遇は悪く、また反乱も招いた。
のちに幕末に活躍した坂本龍馬ら土佐郷士は、彼ら長宗我部家旧臣の子孫である。
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