増田長盛
ました ながもり
大和豊臣家臣。
近江長浜城主だった羽柴秀吉に仕え、各地で転戦した。
山崎の戦い
増田長盛は秀吉本陣の馬廻衆
秀吉の天下一統後は主に官僚として活躍し、諸大名らの取次や、各地で検地を行っている。
唐入りでも渡海し、占領地の統治や兵站を担い、また合戦にも参陣している。
豊臣五奉行のひとりとなった。
肥前名護屋城陣営
増田長盛は北側(城右下)、海岸沿い
秀吉の没後は、石田三成らと協力して徳川家康に対抗した。
関ヶ原の戦いでも、積極的に西軍に与している。
にもかかわらず、家康に西軍の動向を報せるなど情報を流していた。
大坂城に在陣しており、本戦には参陣していない。
戦後、助命こそされたが増田家は改易された。
高野山への追放のち、武蔵岩槻の高力家へ預けられた。
嫡男の盛次は尾張徳川家に仕えている。
この盛次、大坂冬の陣では徳川方として戦っている。
しかし夏の陣では、なんと大坂城に入城し豊臣方として戦った。
よほど豊家の恩が忘れられなかったのか、わざわざ主君の徳川家に許しを得て大坂城へ入ったという。
盛次は夏の陣で討ち死にしている。
戦後、長盛もこの連座で切腹させられた。
長盛は即席味噌汁の発案者として知られる。
細かく刻んだ具材とともに味噌汁を煮詰め、そのあと天日で乾燥させる。
これを携帯し、必要な時にお湯を注ぐとその場で味噌汁が出来上がるらしい。
ちなみに現代、世界で最も有名な日本の発明品はインスタントラーメンだそうだ。
(2番目はカラオケ)
日本人の食への飽くなき探求心は、昔も今も変わらずか。
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