豊臣秀頼

とよとみ ひでより

豊臣家一門。

豊臣秀吉の三男とされるが、出生にはいわくがつく。

母は淀殿だが、父親が本当に秀吉なのかどうかは江戸時代の当時から噂されていた。


逸話によると秀頼は身長が6尺5寸(約197cm)、体重が43貫(約161kg)だったという。

現役時代の横綱・白鷗の身長が192cm、体重は155kgなので、それを上回る巨漢である。

本当にこれだけの体躯であったのかは疑問だが、小柄な秀吉からこのような大柄の子が生まれたのかも疑問だ。


当時から本当の父親ではないか噂されていたのは、大野治長である。

大野治長の母親は、淀殿(茶々)の乳母であった。

2人は幼少のころからの馴染みで、近江浅井家のころから一緒だったとされる。

また大野治長も大柄な体格であったと伝わる。


兎にも角にも、秀頼が秀吉の跡取り息子だったことには変わりはない。

しかし慶長3年(1598)に秀吉が没したとき、秀頼はわずか5歳であった。

当然ながら幼い秀頼に政治が行えるわけもなく、政権は徳川家康ら五大老と石田三成ら五奉行の合議制で執り行われた。

そうして家康の専横を許してしまう。


関ヶ原の戦いは、豊臣秀頼が徳川家康と戦って敗れた訳ではない。

石田三成と家康、どちらも豊臣家の為に謀反者を討伐する名義を掲げて戦ったわけだ。

しかし勝利した家康は専横を極め、日本全国の所領を思うがまま自由に配分した。

こうして徳川家が日本を支配する盤石な体制が築かれてしまった。

なお家康は表面上では秀頼の家臣となるので、この時の鞍替えはすべて口頭で行っている。

秀頼の花押が入った正式な知行宛行状は発行されていない。


そうしているうちに家康は征夷大将軍となった。

かつて秀吉は農民の出とされていたので、武家の棟梁である将軍にはなれなかった。

だから関白になったわけである。

家康はその隙を突いたともいえよう。


家康が将軍として全国の大名を統治し始めた。

その後、将軍が2代目の秀忠に移る。

このときは当時の人々や大名らも、いずれは秀頼が関白になるだろうと思っていたとされる。

しかし家康はそれを許さなかった。

徹底的に豊臣家の勢力を削り、豊臣家はあくまで朝廷に仕える公家大名とした。

そうして方広寺鐘銘事件の難癖をつけ、幕府に従わない公家を討伐すべき敵とした。

こうして大坂の陣が勃発する。


大坂の陣で秀頼はみずからの出馬を求めたが、淀殿がそれを許さなかった。

結局、秀頼は一度も戦うことなく、大坂城は炎上し秀頼も自害した。

大坂冬の陣

豊臣秀頼は大坂城本丸


大坂夏の陣

豊臣秀頼は大坂城本丸

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