本多正信
ほんだ まさのぶ
三河徳川家臣。
本多家は松平家に仕えた譜代の臣。
本多忠勝と同族だが、忠勝と正信は仲が悪かったらしい。
一向門徒であった為、三河一向一揆では一揆側に与し家康に敵対した。
それによって、一揆鎮圧後に三河を追放された。
残された妻子は大久保忠世が養っていた。
やがて十数年の時を経て、家康より許され徳川家に帰参した。
以来、家康の参謀としてさまざまな献策を講じる。
正信の発言はいつも家康の意図を汲み取り、最善の解を導いてきた。
まさに家康の知恵袋であった。
その反面、他の武断派家臣からは嫌われていたようである。
家康は正信に全幅の信頼を寄せ、友と呼んだ。
家康が正信に意見を求めた時、正信が寝たふりをしていると反対なのだと悟り考えを改めたと云う。
家康の側近である正信は、3万石以上の加増を受けなかった。
古来、王の側近が権勢を振るうと我が身を滅ぼすことを知っていた。
嫡男の正純にもその教えを説いていた。
しかし正信の死後、正純は15万石以上の加増を受けた。
やがて慢心が周囲の怒りを買い、失脚し改易された。
かつて松永久秀は、「徳川家臣は武勇一辺倒だが、本多正信だけは非凡の才「非常の器」と称した。
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