山本勘助

やまもと かんすけ

甲斐武田家臣。

名は晴幸。

勘助は実在が不明瞭で、「甲陽軍鑑」にしかその名が出てこない。


勘助は駿河の出身とされるが、若いころは武者修行の旅で諸国を放浪する牢人であった。

そこで剣術や兵法、築城などを会得し、駿河へ戻って今川家に仕官を願ったとされる。

しかし学はあれど勘助はその風貌が災いし、仕官は叶わなかった。

勘助は長年の修行の末に、その肌は黒く、隻眼で体中に傷があり、足も不自由で、指も何本か欠けていたという。


そうして勘助は失意のうちに過ごしたが、やがてその噂を聞いた武田家家老の板垣信方が勘助を召し出した。

武田信玄は勘助と面会し、その博識に感嘆したという。

こうして勘助は信玄に足軽頭として仕え、数々の献策で功を成したとされる。


永禄4年(1561)の川中島の戦いでは、決戦に臨む武田信玄に啄木鳥戦法を進言したとされる。

それは妻女山の上杉勢に別動隊が攻勢をしかけ、山をおりて八幡原に出てきた上杉勢を信玄率いる本陣が待ち伏せして包囲殲滅する策であった。

「啄木鳥戦法」

啄木鳥(キツツキ)がクチバシで木を突き、驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうごとく


しかしこの策は上杉謙信に見破られ、妻女山はすでにもぬけの殻であった。

武田本陣は八幡原で上杉勢に待ち伏せされ、両軍は正面激突となる。

勘助は自らの策が失敗したことによる責任を感じ、死を覚悟して敵中に突撃し討ち果てた。

川中島の戦い

山本勘助は二陣右翼

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