朝倉教景(朝倉宗滴)
あさくら のりかげ(あさくら そうてき)
越前朝倉家一門。
宗滴(そうてき)は法名。
朝倉家は越前の守護代。
戦国期には7代当主の朝倉孝景が守護の斯波家を圧倒し、越前を支配して戦国大名化した。
宗滴は朝倉孝景の晩年の子で、貞景(9代)孝景(10代)・義景(11代)の3代にわたって仕えた。
一族の宿老として軍奉行を勤め、各地で転戦する。
加賀一向一揆との九頭竜川の戦いでは、一揆勢30万に対しわずか1万1千の兵で迎え撃ちこれを破ったという。
宗滴は朝倉家の最盛期を築き上げ、「越前の軍神」とも称された。
宗滴の残した「朝倉宗滴話記」には有名な
「武者は犬ともいへ畜生ともいへ勝つことが本にて候」の文言がある。
また他にも、各国大名の人物評を語っている項もある。
宗滴は名将として、三好長慶・長尾景虎(上杉謙信)・武田信玄・今川義元・毛利元就らの名を挙げている中、織田信長の名もあった。
当時の信長はまだ全国的には無名であった。
桶狭間の戦い前で「尾張の大うつけ」と評されていたころである。
宗滴は臨終の前に
「あと3年は生き長らえたなら、上総介(信長)がどうなるか見れたのに」
と語っていたという。
その後、信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ったことは宗滴の慧眼が伺える。
やがてその信長に朝倉家が滅ぼされるのも、何かの因果であろうか。
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